博多祇園山笠情報なら

まるごと中洲案内
博多祇園山笠情報
 
博多祇園山笠の全日程
オススメのビューポイント
博多祇園山笠とは
博多祇園山笠の始まり
博多祇園山笠の歩み
その他の情報
 
博多祇園山笠の全日程
 
[7月1日]
◆飾り山笠の一般公開
└7月15日午前0時まで

[7月1日]
◆お汐井取り(当番町のみ)
└東区箱崎浜まで走り、浜辺の清め砂で身を清める

[7月9日 夕方]
◆お汐井取り(全流)
└各流の全員が清め砂で身を清める

[7月10日 夕方]
◆流舁き
└各流が自流の区域を舁き回る

[7月11日]
◆朝山(早朝)
└各流が早朝に流舁きを行なう
◆他流舁き(夕方)
└自流以外に出て山を舁く

[7月12日 15:59〜]
◆追い山ならし
└追い山のリハーサル

[7月13日 15:30〜]
◆集団山見せ
呉服町→明治通り→
福岡市役所→各々の流

[7月14日 夕方]
◆流舁き
└追い山前の流舁き

[7月15日]
◆追い山(4:59〜)
└山笠のクライマックス
◆鎮めの能(6:00〜)
└櫛田神社能舞台にて
 
[▲上へ]
 
オススメのビューポイント
 
◆櫛田神社内の桟敷席
境内の清道脇に設けられ、追い山の櫛田入りを間近に見ることができる特等席です。
券は毎年数分で完売する人気振りで非常に入手が困難です。

◆大博通り
道幅が広いため安心して見物できます。やや迫力に欠けますが、家族連れにオススメです。

◆旧東町筋
舁き山が狭い道を駆け抜けるため、疾走する山を間近で見ることできます。勢い水でずぶ濡れになる点に注意。
 
[▲上へ]
 
博多祇園山笠とは
 
福岡市博多区の総鎮守・櫛田(くしだ)神社の神事として執り行われる祇園祭で、正式名称は「櫛田神社祇園例大祭」です。
これにちなんで山笠と呼ばれる神輿に台車をつけたような山車を町人が舁き回す付け祭りが始まり、このことも含めて「博多祇園山笠」と総称されるようになりました。
毎年、7月1日〜15日の日程で執り行われます。福岡市内の各所に「飾り山笠(かざりやまかさ)」と呼ばれる壮麗な山車が公開されることから始まり、清めの行事「お汐井取り(おしおいとり)」、伝統を子供に伝える場としての「子供山笠」、そして祭りの主役である山車「舁き山笠(ひきやまかさ)」が動きだすと「流舁(ながれがき)」「朝山」「他流舁」「追い山馴し」「集団山見せ」「流舁」と行事は流れ、クライマックスの「追い山」を迎えることとなります。
「追い山」は7月15日早朝に櫛田神社境内からスタートする七つの山笠のタイムトライアルです。打ち水をかけられた舁き手の男達が「おいさっ!おいさっ!」と勇壮に声を合わせ、重さ1トンの山車を5kmもの距離を豪快に引き回すその迫力はまさに博多祇園山笠の顔であり、最後を締めるに相応しい行事です。
祭り期間中の人出は三百万人、祭りの参加者は総数五千人を超えると言われ、「博多祇園山笠」はまさに福岡は博多を代表するお祭りであると言えます。
 
[▲上へ]
 
博多祇園山笠の始まり
 
その勇壮さと激しさばかりに目を奪われてしまう「博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)」ですが、その始まりには悲しい逸話が秘められています。
今から約750年もの昔、鎌倉時代のある夏、博多では疫病が流行し多くの人が亡くなりました。これを鎮め清める為に、当時の承天寺開祖・聖一国師弁円(しょういちこくしえんに)が町人の担ぐ施餓鬼棚(せがきだな)と呼ばれる祭壇から水を撒き、祈祷を捧げたことが後の山笠の発祥になったと伝えられています。
 
[▲上へ]
 
博多祇園山笠の歩み
 
その後、室町から戦国時代へと時は流れ、戦国大名の島津氏と豊臣秀吉の戦さで博多の町は焼け落ちてしまいましたが、勝利を収めた秀吉が博多の街をいくつかの「流」と呼ばれる区画割で復興(太閤町割)させたことが、現在の祭りの七つの「山笠」と呼ばれる神輿…山車のグループ分けの始まりになったのです。
初期の山笠は簡素なものでしたが、江戸時代には山車を美々しく情景や人形等を細工したものなどで豪華に飾り立てるようになり、高さも10mを超える巨大なものへと変貌していきました。 後にこれが「飾り山笠」と呼ばれるようになりました。
「追い山」と呼ばれる山笠が走る早さを競う行事は、同じく江戸時代にある二つの流れがトラブルを起こし、勢いにまかせて追っかけっこのつばぜり合いを始めたところ大いに祭りが盛り上がることになったことから始まったとされています。
さらに時代は進み、明治時代になると福岡市内に路面電車が開業し架線が張り巡らされたのが原因で背の高い山笠の運用は不可能になり、祭り存続の危機となりました。しかし、背が低い「舁き山笠」を飾り山笠と別に準備することで問題を回避し、今の街を練り歩く「舁き山笠」と町内を飾り立てる「飾り山笠」のスタイルが出来上がりました。
また、かつては締込み一丁で裸同然だった山笠の舁き手たちの姿も、近代では品性などの点で問題になりました。しかし、水法被を着用することで難を逃れました。
昭和に入り、国の重要無形文化財にも指定され、日本三大祇園祭の1つにもなりました。
数々の変遷と困難を乗り越えて時代は変わりながらも、変わらない博多町人たちの意気込みが「博多祇園山笠」を21世紀の今日まで引き継がせて来たのです。
 
[▲上へ]
 
その他の情報
 
wiki:博多祇園山笠(外部リンク)
 
[▲上へ]

まるごと中洲案内TOP
メールお問合せ

(C)まるごと中洲案内